1974年の宇宙戦艦ヤマト

宇宙戦艦ヤマト」26年ぶりの復活、だそうです。昔はともかく、今は全く関心の無い自分であっても、映画「復活篇」の封切りに伴ってテレビ宣伝やネットでの論評で否応無しに情報が流れ込んでくる訳です。その中には「テレビアニメ第一作の爆発的ヒット以来...」みたいな宣伝文句や、映画「復活篇」のメインターゲットであろうオヤジ層の自虐史観・慰撫史観に絡めた批評等もあり、自分的には「なんだかなぁ...」という違和感を拭えません。それでもこれをきっかけに、テレビ放送をリアルタイムで見ていた頃の記憶が蘇ってきたこともあり、ボケてしまう前に当時の空気というか身辺雑記を残すのもよかろうと思い、書いてみることにしました。

1974年当時、私は小学生で松本零士ファンでした。これは、クラス仲間の間で「男おいどん」を読むのが何故か流行っていたからです。「男おいどん」は少年マガジンに連載されていた決して子供向けとは言えない青春哀歌的な作品で、当時の自分達にその魅力が分かっていたとは思えませんが、それでもギャグマンガとして面白かったらしく「死め〜」とか「サルマタケくらえっ」なんて言い合っていたもんです。そう、当時の私にとって松本零士ギャグマンガ家で SF 漫画家じゃなかったのです(後年、後追いで「潜水艦スーパー99」等を読みますが)。だから、やはり当時購読していた冒険王で「宇宙戦艦ヤマト」なる SF 作品の連載が開始され、しかも合わせてテレビ放映されるという知らせには、ちょっと驚くとともに熱狂的に受け入れました。「男おいどん」のコミックス最終巻には、未来の「おいどん」の末裔が人類を上げての地球脱出にひとり取り残されるという SF 小編が収録されており、松本零士が「カッコ良いメカ」を描くことは頭の隅にあったのでしょう。

さてテレビ放映が始まってタマげました。なんたって「ヤマト」がなかなか発進しないんですよ。第一話の最後で朽ち果てた戦艦大和が干上がった海底に半ば埋もれて佇む有名なシーンこそあるものの、宇宙戦艦となってパリパリ皮を破って飛び立つのは次回まで待たねばなりませんでした。それまで見てきたアニメではあり得ない訳ですよ、主人公が初回から姿を見せないなんて。今なら、1回1回子供のハートをガッチリわしづかみにすることが至上命題の産業アニメと異なり、ストーリー重視の...なんて勿体ぶった解説もぶてるでしょうが、当時はメカの描写も含めて「なんか、本格的」という曖昧だけど本能的な印象が突き刺さってきました。

以上は自分を含めた仲間内数人の範囲のことで、当時としては随分マイノリティでした。他の子供たちは永井豪は知っていても松本零士なんて聞いたこともなく、みな裏番組の「猿の軍団」を観ていたのですから。それでもこんなマイナー志向の子供が全国には随分居たらしく、それが後の劇場版へ、さらに続編の「さらば」に繋がっていった訳です。自分的には「さらば」までは結構共感しながら観ましたが、その(正確に言えばTV「ヤマト2」の)続編として強引に作られた「新たなる旅立ち」を見て「なんじゃこのクズは」と激昂して以来(当時高校生)、「ヤマト」シリーズとは決別しました。

あとから知ったことですが、大ヒットした「さらば」に向けて軍国主義的だ、みたいな(アホらしい)批判があったとかで、それをかわす為もあったのか知りませんが、ヤマトシリーズは回を重ねる毎に「愛を描く」ことが(少なくとも表向きの)テーマの比重を占めるように見え、それが自分にはしっくりこないというか、むしろ気持ち悪かったです。戦艦を操るのが人間であり、まして舞台が死地である以上、否応無しに人間の愛も憎しみも虚無も浮き彫りにできるであろうに、なんで惑星を超えてまで(異星人同士の)男女が愛しあうみたいなシチュエーションを加えなきゃならんの? もっとヤマトと敵艦隊が互いに高度な戦術を駆使して二転三転するスリリングなバトルを見せんかいっ、てな感じです。

個人的にはアニメ「ヤマト」の魅力は、メカデザイン(それが動く!!)や戦闘描写がもたらす映像的快感だと思うのですよ。映画には詳しくないですが、黒澤明ヴィスコンティの作品を口を酸っぱくして魅力を語っても数秒間の映像の快感を伝えられないのに似ているような気がします。そこに、松本零士の体臭とも言える「男にゃダメだと分かっていてもやらにゃいかんときがあるんどー、このー」(おいどん調)的なダンディズムが流れていれば、もう十分でしょ? もしこれから零士イズムの源流に触れてみたい方がいるのであれば、「男おいどん」「戦場まんがシリーズ」「セクサロイド」をお薦めします。薄っぺらな昨今の「ヤマト」には無い、不条理も挫折も諦観も、男のダメさ加減まで詰まってます。